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CopyrightDr. Arthur K. Wheelock Jr.,C.J.Kaldenbach
地形的な修正や光の効果の変更とは別に、フェルメールは、この場面の平行の方向性を高めるため船、そして水面の反射にいくつかの調整を施した。赤外線撮影写真から、フェルメールが構図の最右端にある二隻の鰊漁船の配置にすばらしい修正を施したことがわかる。彼は、もともとこれらの船をいくらか小さめに描き入れている。手前の船の船尾と二番目の船(奥)の船首を大きくしたのである。最も重要な変更は、以前ロッテルダム門の正面ちょうど前で終わっていた手前の船に関わるものだ。この最初のアイデアによる水面の反射は、投影写真(?reflectogram)に見られる。この船の船尾を後方及び左へ伸ばすことで、フェルメールは、ロッテルダム門の遠近感を修正したようにこの船の奥行感を最小限にした。
| X線及び赤外線投影図、この構図におけるさらなる重要な修正は、ロッテルダム門の二つの塔の水面の反射の調整であった。もともとの反射は、遠方の岸にある建物の建築的形成をかなり正確に示していた。にもかかわらず、最終的な構図でフェルメールは、その反射を絵の下の縁で交わるように下方へと伸ばした。ロッテルダム門の塔と中央のスヒーダム門の組み合わさった反射(両方とも前景にある河岸に届いている)の効果は、街の輪郭と前景の要素を微妙であるが、本質的な方法で結びつけている。その反射はほとんど影のように作用しているが、向こう側の河岸に並ぶ多数の建物に重みと厳格さを与えている。さらに、この構造物を前景に固定させる以上に、特定部分の街の誇張された反射は、この場面を横切る水平線、垂直線及び対角線の二次的な視覚パターンを確定するアクセントを創り出している。 |
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こういった地形上の補正と意図的な構図の調整はすなわち、この作品へと向ける我々の仮定を考え直させるものである。もし『デルフト眺望』が本当に地誌的正確さから少しちがっているのであれば、私達はどのようにフェルメールのカメラ・オブスキュラの使用の問題を取り上げればよいのだろう? フェルメールがカメラ・オブスキュラを使って、地誌的に正確なイメージを創り上げたという仮定がなされているのだが、これは明らかに真実ではない。しかし、もっと幅広い意味で、彼の絵において現実のイリュージョンを高めるための手法としてのカメラ・オブスキュラで作り出されたイメージを見たのかもしれない。
文献に記されているように、フェルメールは、スヒーダム門とロッテルダム門の向かいの港にある家の2階からデルフトのこのような風景を眺めていたのであろう。このような家は古い地図に見い出されている。彼の観察地点についての最近の科学的な推算から、この仮説が強められる。[13] もちろん、フェルメールが実際にカメラ・オブスキュラをこの場所に置いていたかどうか、または彼が景色をそこで描いたかどうかについては、何の記録的な証拠もない。にもかかわらず、フェルメールが、制作過程のある段階でカメラ・オブスキュラを用いたという仮説は、遠方の河岸での光、色、空気、そしてハイライトの拡散の特有の効果のために正当性を得ているのだ。
カメラ・オブスキュラは、それが創り上げる自然主義的な風景効果のため、17世紀に幅広く賞賛された。[14] この機器の効果に対する評価の基準は、それには雲、水、鳥などの動きが見える。それが生きたイメージを呈示している、という事実に由来しており、明らかな写実主義は、イメージの鮮明さにも由来している。色のアクセントと光と影のコントラストは、カメラ・オブスキュラの使用により一層強められ、明らかに誇張され、そのためイメージに更なる強烈さが与えられる。この現象には、空気遠近法の効果を最小限にするという補助的な属性がある。『デルフト眺望』においてはこれらの現象はすべて存在している。光と影のコントラストは主張され、色彩は鮮明で、大気遠近法は取るに足らない。
スヒー川の向こう岸、特に船の上に沿って、カメラ・オブスキュラのピントの合っていないイメージで見られる場合と比較しうるような、数多くの拡散したハイライトが現われている。フェルメールが自身の画歴の最初からフェルメールは、質感効果を高めるために彼のイメージを絵画の小さな点や粒で表現している。しかし、『デルフト眺望』の船の上に拡散しているハイライトは、1650年後期から1660年初期にかけての彼の他の作品(アムステルダムの国立美術館の『牛乳を注ぐ女』は例外であるにしても)で見られるものと異なっている。他の絵画の中よりも更に散らばっているだけでなく、これらは、質感に結びつかないものだ。これらの目的は、水面からの輝く反射をあらわすことである。そのような反射は、焦点の定まらないカメラ・オブスキュラの像では、拡散した円形のハイライトとして現われるであろう。そして、陽の光の中だけに現われ、この作品中に描かれているように影の中では現われないだろう。つまり、フェルメールが、このような機器を使用したようにみえても、そのイメージを構図用に修正し、調整したのである。
フェルメールは、明らかにこういったカメラ・オブスキュラからの視覚的な刺激に対応して、光学上の効果が、彼が探し求めていた自然主義的及び表現に富んだ特徴を強調することに気付いたのである。彼の写実主義は、すなわち、常に深遠なタイプに属する。非常にさまざまな物質的世界にある形や素材や質感を、自らの絵画技法を通して表現しようとしたと同時に、彼は、これらの物体に限られた時間と空間の範囲を超えたオーラと重要性をも与えているのだ。
『デルフト眺望』は、フェルメールの作品群の中ではきわめて特異である。アムステルダムの国立美術館にある『小路』も建物の外側を描いているが、この大きくて、人目を引く絵画よりはずっと親しみ易い作品である。『デルフト眺望』はまた、知られている限りは、この眺めの位置からの街の風景画ではもっとも初期のものである。それならば私達は、これがどのようにして描かれるに至ったのかという問題を呈示しなければならない。私達には委任の記録もないし、もちろん、アムステルダムでの販売で
"De Stad Delft in perspectief, te sien van de Zuyd-zy, door
J. vander Meer van Delft" [15]として現われた年である1696年以前に絵画の存在が言及されているものはない。この絵は、同じ販売で現われたフェルメールの他の20作品と同様に、印刷出版業者のヤコプ・アブラハムスゾーン・ディシウスがそのセールで所有した可能性が高い。彼のコレクションの1682年作成の財産目録には、1点1点の区別は残念ながらできないとはいえ、フェルメールによる19もの絵画が含まれているのだ。[16] ディシウスが、これらを彼の生存中にフェルメールより直接購入したのか、1675年の彼の死後、フェルメールの未亡人または義母より購入したのかは知られていない。いずれにせよ、絵が聖ルカ組合または他の市民団体の委任により作成されたという証拠は呈示されていない。
委任の明確な証拠がないことと『デルフト眺望』が生涯フェルメールの所有物であったというはっきりした可能性があることで、フェルメールのこの作品制作の動機を推測するのにためらってしまう。それでもやはり、いくつかの情報が呈示されているようである。より幅広い意味において、フェルメールは、地図製作法の伝統を通じてよく知られている画風形式を選んだ。大きな市街図が一緒に見られる街の輪郭がしばしば見つけられる。そういった側面図は、例えば、大きな『デルフトの絵地図』に見出される。これらの街の側面図はしかし、一般的に街の特有の際立った特色を強調していた。デルフトに関しては、この眺めの位置は、旧教会と新教会の両方の塔が街の側面図を占める西側からのものである。フェルメールの眺めは、これらの街の特有の建造物を十分に際立たせていないため、地誌学的伝統の特徴をもっていない。彼の絵画では、旧教会の塔は、構図の中央左奥にわずかに認識しうるだけである。
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13.デルフト工芸学校(?polytechnic)のW. F. Weveによるこの地域の大きな縮尺の地図と絵画の再現に基づいた科学的測定は、フェルメールが描いた特定の地点を確定する試みに使われた。建物上の認識可能な点の綿密な推定に沿ってたどり、すべての視覚の線がいくらか小さい角度で曲がるようにすると、科学者達の結果は、フェルメールが、今日のホーイカダまたは、ズイデインデ(?Zuideinde)にある家にいたということを示している。一軒の家が古地図、『カダストラーレ・ミヌート』(1830年頃)上のこの地点に現われている。テミンク・グロール(Temminck Groll)教授が、フィーブ氏に作業方法に関する助言をした。
三本の視覚の線(D,E,H)が長いストライプで地図に引かれている。線Hは、新教会の塔から始まり、ロッテルダム門のすぐ左まで延びている。線DとEは、武器倉庫の外側の切妻から始まり、ケテル門のそれぞれのサイドを通り抜けている。これらが交わったところで円が描かれている。
線C、E、G、Iは、この円上の測定された点から始まり、フェルメールの絵画上の他の認識可能な建築の詳細を触っている。線Bは、旧教会から始まり、線Fは、武器倉庫から始まっている。更なる逸脱を除くために『カダストラーレ・ミヌート』を訂正する試みはなされていない。こういった理由から、ロッテルダム門の正面門は、この地図から外されている。(戻る)14.フェルメールとカメラ・オブスキュラの論文に関しては、
Arthur K. Weelock, Jr., "Perspective Optics, and Delft Artists around 1650, " New York, 1977;
Idem., 'Constatijn Huygens and Early Attitude towards the Camera Obscura,' "History of Photography," 1, 1977, 93-103;
Idem., "Jan Vermeer," New York, 1982, 33-39, 94-96 を参照のこと。(戻る)15.Blankert, "Vermeer," documents no. 62, 153.(戻る)
16.オランダ都市の伝統についてのすぐれた論文は、
Wattenmaker, et. al., "The Dutch Cityscape in the Seventeenth Century and its Sources, exhibition catalogue, Amesterdam, Historisch Mueseum, Amesterdam and The Art Gallery of Ontario, Toronto, 1977;
Christopher Brown, "Dutch Townscape," London, 1974;
Walter A Liedke, 'Pride in Perspective: The Dutch Townscape,' "Connoisseur," April, 1979, 266-273.(戻る)
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