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CopyrightArthur K. Wheelock Jr.,C.J.Kaldenbach
描かれる都市景観は、17世紀前半を通じて突発的に現われていた。ヘンドリック・フローム(Hendrik Vroom)によるデルフトの二枚の風景を含めて、この世紀の初期に特定数の地誌的景観図が描かれたのにもかかわらず、同世紀中頃までは、特定の街の描写はまれにしか見つけられなかった。[17] しかし、1650年初期には、デルフトの画家たちは、この街の重要な建築的モニュメント、特に、旧教会や新教会に焦点を当て始めた。建築画の活動的な画派として現われたヘラルト・ハウクヘースト(Gerard Houkgeest)、エマニュエル・デ・ウィッテ(Emanuel de Witte)やヘンドリック・ファン・フリート(Hendrik van Vliet)は、これらの雄大な空間内部を幅広く描写した。 また1650年代には、街そのものが肖像画(ヤン・ステーンの『デルフトの市民とその娘』"The Burgher of Delft and his Daughter" p.c. Great Britain)及び風俗画(カレル・ファブリティウスの『楽器売りの屋台とデルフトの眺め』"View of Delft with a Musical Instrument Seller's Stall"、ロンドン、ナショナル・ギャラリー、ピーテル・デ・ホーホ、『デルフト民家の中庭』"A Dutch Courtyard" ワシントン D.C.、ナショナル・ギャラリー)の重要な背景となった。フェルメールの『小路』は、認識できる建造物が描写されていなくとも、この伝統において重要な作品であるのは、建築的な形態とその質感からなる静かな美に人物像が初めて完全に従属しているからである。
1654年10月12日に、デルフト建築画の発展にとって重要な結果をもたらした惨劇がデルフトで起こった。この日、弾薬倉庫が爆発し、街の北東を壊滅させ、多数の人々を死においやった。その中には画家のカレル・ファブリティウスが含まれている。爆発とその余波は、デルフトの画家たち、特にダニエル・フォスマール(Daniel
Vosmaer)及びエグベルト・ファン・デル・プール(Egbert van der Poel)、による多数の街の景観図の主題となった。これ
らの絵に逸話的な特徴があるにもかかわらず、絵画は、一般的に新教会と旧教会の雄大な塔を含む街のパノラマ景観図になっている。
フェルメールの『デルフト眺望』は、惨劇後の描写というよりはむしろ全く別の特徴を備えている。ほとんどデルフトでの爆発の影響を受けた描写への反応とみてもよいくらいに、彼は、破壊の後が見られない場所を選んだ。1600年代初期の建築絵画と同じように、彼の絵画は、街の存在の賞賛である。その量感のある門と街壁と教会の尖塔の綿密な記録を通してのデルフトの古く、顕著な歴史の記憶なのである。14世紀から存在するロッテルダム門とスヒーダム門は、陸上と海上の交通管理そして敵の攻撃から街を防護するためにあった。1584年デルフトにおけるウィレム沈黙公の暗殺、そして宮廷と政治の中心のハーグ遷都後、軍による攻撃の脅威は減った。スヒーダム門はかつてロッテルダム門のように二つの塔があったが、1590年〜91年に変更され、港は1614年に掘られた。ロッテルダム門は、二つの塔が1695年のしばらくの後に破壊されるまで完全な状態で残った。(街側のいくつかの美的修正を除く)[付録参照]
影を落としているこれらの壁と門の向こうには光が街を浸している。それは、特に新教会にあたっている。これは街のマルクト広場の一辺に立つ雄大な15世紀のゴシック建物である。教会は実際、都市の生活の中心でありネーデルランドでは最も有名な記念碑であるウィレム沈黙公の墓を収容していることで特別な重要性を備えていた。フェルメールの地誌的調整が、構図的だけでなく象徴的な動機を与えられたかどうか決めるのは難しい。にもかかわらず、フェルメールの街のイメージは、ほとんど畏敬の念に満ちている。この眺めの位置からのデルフトは遠くはるかに隔たったままで、水が向こう岸への私達の直接的なアプローチを阻んでいる。強い水平線と垂直線の強調と前景の薄暗い光が、静かで、瞑想的な雰囲気を創り上げている。最後に、教会と街の内部に落ちる光は、人を引き付けるきらめきを与えている。
デルフトでの街とその君主と芸術を賛美するその時代の関心をみれば、フェルメールが意識的にデルフトの景観に特別なオーラを与えようとした可能性は、強められる。1661年に、新しく改築された聖ルカ組合(ギルド)は、コルネリウス・テ・マン及びレオナルト・ブラーメルはを含む多数の芸術家に絵画、建築と彫刻の芸術に関する寓意的な作品を製作するよう委任した。
[18] ブラーメルは、自由学芸の連作を描いた。そこでは「絵画」がもともとの7つの学芸の中に付け加えられている。
1667年には、街の記述と歴史を述べたディルク・ファン・ブリズウィック(Dirck van Bleyswijck) の"Beschryvinge
der Stadt Delft"の出版に際して、彼は 表紙のデザインに金色のトランペットを吹いている「名声」の擬人像を選んだ。数年
後、街の行政府は、大きな『デルフトの絵地図』を委任した。この街の詳細な景観の中にデルフトは、周りの地域を治める繁栄絶頂の姿で表されている。デルフトの重要性の象徴は、しかし、市庁舎内の市長の部屋にかかっている地図の壮大な大きさに全てあらわされてはいない。ブリズウィックが彼の本を改訂して、大きな『デルフトの絵地図』を作成したとき、彼は、地図にではなくをそれを囲んでいる枠に表されているエンブレム的象徴に焦点を当てた。
このような文献上の結びつきは、フェルメールに使用されたデルフトとその遺産を賞賛するための更に主観的な手段とは確かに違う。しかし、両方共根本において似通った基盤を備えている。芸術は、描写以上であり、そして人間経験に基本となる必須の真実についての言及を含んでいるという、この基盤は、ほとんどのフェルメールの絵画の中にはっきりと見ることができる。彼の全ての傑作の中で最も心動かされるこの作品には、自然形体の選びぬかれた変形を通して成し遂げた、人間努力の更に深い表現を重んじたため、エンブレム的意味内容の言及は取り除かれている。
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17.Dirck van Bleyswijck, "Beschryvinge der Stadt Delft," Delft, 1667, 647.(戻る)
18.Ibid., 861-863(戻る)
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