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DR.アーサー・K・ウィーロック JR., C.J.カルデンバッハ

フェルメールの『デルフト眺望』と
彼の現実の光景

CopyrightDr.Arthur K. Wheelock Jr.,C.J.Kaldenbach

                 

<付録>
   

 下記は、フェルメールの『デルフト眺望』において描写された主な建築的要素の簡潔な歴史を構成する。

 城のような形の街の門であるロッテルダム門は、14世紀に建てられた。1590年から91年の改築により、街側のファサードは、近代的な美学的要請によって極度に装飾された。全体の構造は、正門のある建物と、はね橋がついた二つの八角形の塔のある正面門の二つのセクションから成っている。この正面の入り口は、はね橋の真上にある部屋から警備員によって管理されている。外側の壁は、黄色のレンガでの修復のあとがあらわれている。

 はね橋から正門を抜ける道は、アーチの上に建てられた約3メートルの屋内の廊下の側面に位置する。正門の頭上で、警備員達は、床の開口部から交通の整備をする。入口を塞ぐには、街側のファサードで鬼戸を下ろすことができた。多分、正門は平面図と屋根において対称だった。が、最初の信頼できる1830年頃の地図は、非対称的なデザインを表している。この正面門は、その周りのものより長く、1695年いくらか後まで完全な状態で残った。この年、ヨシュア・デ・グラーフは、たぶん予定されていた取り壊しを念頭において、異なった角度から描いた一連の素描を残している。取り壊しでは、土台は、道路として残された。必要性に応じて、一車線のはね橋は、1737年に大きめのものに取り替えられ、正門は、1834年に大通り建設のために取り壊された。

 門は、美的理由により普通のレンガと薄い色の自然石の層が交互に組み合わさって建てられ、平行な特徴を生み出し、空間を明らかにしている。これらの層は、その外観をよくするためところどころ色がつけられている。層の数は、他の画家達による描写で大きく異なるが、17層というのが常識的な予測であろう。屋根は、十字型の頂点及び四つの三角な側面に二つの屋根窓のある寄棟を備えている。門の鑑賞者側では、北と南を軸とした斜めの屋根は、煙突の立っているところまで続いて降りている。突き刺すような輪郭は、屋根の天辺と煙突の先の尖った練鉄と鉛の装飾物によって作り出されている。ファサードと煙突の基部のS形の石の装飾物は、画家達に大変な困難を招いており、沢山の異なったバージョンが見られる。

 スヒーダム門とロッテルダム門は、概して言えば、一対の構造である。スヒーダム門の主要の建物とその正面の間の廊下は、16世紀の終わりに壊れてしまった。1590年から91年にかけて基部は、波止場として残されたにもかかわらず、この正面門は、取り壊された。正門は、低くされ、四方に段のついた切妻によって近代化された。フェリーを迎え入れるため、時計塔と鐘塔が取り付けられた。フェルメールの眺めの位置からは、建物は、長方形に見えるが、実際には、ダイアモンド形である。門の左側に付いているのは、不規則な形状である。この正確な形は、アブラハム・ラーデマーケルのスケッチにおいて観察されることができる。

 ファサードの自然石の層は、ロテッルダム門のものよりも少ない数である。二つの対になったバンドは、アーチ形の入口の真上に追加された平行なバンドにて明白である。フェルメールは、足場組みを置いていた穴を含んだ。これらのことは、ゲリ・トーレンブルグの18世紀のスケッチのこの場所の彼の緻密な描写においても見られることができる。

 街壁の左側にフェルメールは、平行な(石?)バンドを中央に付け加えている。ほかの画家は、このバンドを表していない。ビショップの更に細かい描写においてさえもこれは現われていない。右に向けて壁は直角に1591年以降に建てられた、波止場と橋へのアクセスを簡単にするための小さなケテル門へ導かれている。他の画家達による描写では、二つのドアが簡素な斜めの屋根に覆われているのが見える。街側では、古典的な様式での装飾が建設され、デルフトの紋章を握った獅子によって、天辺を飾られている。街側の壁は、土の小山によって補強されており、製粉所や納屋を含むいくつかの建物がこの空間を占めている。

 港は、実際は、「コルク(kolk)」と呼ばれる運河化された水路である。14世紀頃に、ロッテルダム門とスヒーダム門は、スヒー川の土手にほとんど対称的な一対の塔として建てられた。これらは、水上と陸上の交通を管理するために働き、敵が襲ってくるとみられるところで街を守るために働いた。16世紀の終わりには、デルフトの軍事的要塞としての地位は、低下した。この時までに、スヒーダム門の正面門は既に崩壊しており、1590年から1591年には、膨大な改築が行なわれた。スヒーダム門の正面門は取り壊され、その中心的な建物は、低くされ、近代化された。港は1614年までには城壁よりも必要とされ取り除かれたが、三角形の城壁が、門の正面に建設された。従って、スヒー川のデルフト側において三角形の港が、フェリー及び交通機関の更なる停泊用スペースが延びている小さな桟橋(the Hoofd)と共に造られた。

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リサーチ資料
 

 ロッテルダム門とスヒーダム門は、写真が発明された1834年と1836年に取り壊された。しかし、写真の存在は知られていない。南向きで日当たりがよく、水の上で絵画的な位置にあるため、門は、何度もスケッチされ、描かれ、エッチングされたり、彫り込まれたりされた。これらのほとんどは、市営古文書保管所及び (?Municipal Archives)及びプリンセンホフ博物館で見つけられるであろう。これらの描写のうち30枚は、門を正面から表しており、だいたいフェルメールが選んだ場所である。この研究のために、他のアングルからの景観図も発見した。ブランケルトで引用されたものを除いて、合わせて45枚のスケッチと水彩画、17枚の版画プリント、11枚の街の地図及び4枚の絵画である。私達は、市営古文書保管所のスタッフの協力に感謝したい。プリンセンホフ博物館イネケ・スパンデルは、このリサーチに関し特に援助してくれた。
 極重要なデルフトの歴史とをの文化的遺産の情報は、下記プリンセンホフ博物館(デルフト)の展覧会カタログシリーズに掲載されている数多くの論文にも見られる。

   * De Stad Delft, cultuur en maastchppij tot 1572 (part I), Delft, 1978

   * De Stad Delft, cultuur en maatschppiji van 1572 tot 1667 (part II), Delft, 1980

   * De Stad Delft, cultuur en maatschppij van 1667 tot 1813 (part III), Delft, 1982

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