フォルデルスグラヒト21番地。聖ルカ組合集会所の跡地には、19世紀になってヤン・フェルメール学校がたてられた。現在の近代的な校舎はその1世紀後に建てられたものである。
結婚してから6カ月後の1653年12月29日、21才のフェルメールは親方画家として聖ルカ組合に入会の意向を示した。
デルフトの画家は、職人や商人と同じように自分の組合に所属した。彼らを守護する聖人は幼子を抱くマリアを描いたことがあるとされている伝道福音記者のルカだった。
入会費は6ギルダーで、フェルメールはそのうちの1.5ギルダーを支払う。彼は明らかに苦しい経済状態にあり、まとめて会費を払うことができなかったのだ。2年半後の1656年7月24日まで残りを払えなかった。
聖ルカ組合が創設されたのは中世だろうが、最初にその名が現われるのは1545年の記録となる。それはデルフトで最も大きく最も重要な組合だった。
組合員は、画家、家屋塗装・装飾職人、ガラス彫刻家、ステンドグラス職人、ガラス職人、製陶職人、刺繍職人、じゅうたん織職人、彫刻家、本屋、出版人、画商などだった。組合は会員の利益を奨励するとともに仕事の質を管理した。組合に所属する芸術家のみがデルフトで作品を販売することが許されていた。
デルフトの画家はガラス職人や製陶職人とは異なり、作品を提出する義務は課せられていなかったが、組合に入会する前に7年間の修行を積むことになっていた。
聖ルカ組合の理事会は6人の理事(2人の製陶職人、2人のステンドグラス芸術家、2人の画家)から成っており、市の顧問団体の40人委員会に属する人物が理事長にとなって率いていた。理事の任期は2年だった。聖ルカの日にあたる10月18日には毎年、新しい理事を3人選んだ。(各職から1人)一つの空席につき、二人の立候補が指名され、年末までに市長と市議会員が人選をした。
フェルメールは2回理事を務めた。1662年には組合史上最年少の30才という若さで理事に選ばれた。そして1671年から73年までもう一度この役職を得た。